寄贈された本の整理整頓が終わった翌日。
開館されたばかりの中立図書館には、すでに多くの利用者がやってきていた。
リベルやトワユのような司書たちが、本の案内などをする傍らに、館内案内役の職員も忙しそうに走り回り、事務担当の職員は書類と睨めっこをしている。
それでも図書エリアに入ると、利用者は多くいるものの、空気は静寂の一点。各々が求める本を探し、読み耽り、共に時を過ごしている。
そんな中にひとり、難しい顔をした初老の男がまっすぐに一般図書エリアを通過していく。
「えーっと……」
初老の男はひとり、口の中で何かをぶつぶつと呟きながら、棚と本に囲まれた通路を慣れた様子で歩き、角を曲がっていく。
手元の小さな革帳に目を落としたまま、その動きは、頭頂部にも目がついているのではと思わせる程の正確さだった。
彼は、人気の少ない一角に足を踏み入れて、ぴたりと立ち止まる。
ふと顔をあげて、視線をふらりとさまよわせた。そして、その先にあったある本を見つける。
青黒い背表紙。金で箔押しされた装飾に縁取られている。本の名前は——書いていない。
その本を目にしてから、手に取るまで、男の動きには迷いも躊躇いもなかった。
あの本を、開かねば。
男は強い衝動に駆られて、青黒く何者かの気配が漂う表紙を持ち上げた。
そこには——黒い紙が中表紙として存在していた。真っ平でいて、何も文字など書かれていないそこに、ふわりと青い文字が浮かんでくる。
男の目が見開かれる。しかしすぐに、その文字を追い出した。
目では追いつけない速さで、その文字の羅列は続いていく。
読み終えた男が次のページを開くと、そこにはすでに文字が浮かび上がり、増殖を続けていた。
流れるように文字を追い続ける男の目が、ある場所で、止まる。
「う……っ?」
呻いた男は、腹の奥が熱を持ち始めたことに気がつき、そこに手を押し当てた。
熱は徐々に高まっていく。
「な、なんだ……っ」
脈打つ。己を形成している、その臓器——我々はその臓器を『霊核』と呼んでいる。体を保つ霊素を作り、循環させ、己という存在の源にもなる素養をすべて抱えているのだ。
綜文院著「霊素の奔流」より抜粋全体が、まるで何かを拒むように熱く。
冷や汗を顔中に浮かべた男は、誰かに助けを求めねばと足を動かそうとして、震える手からは本が滑り落ちた。
そのとき、男の口から、真っ黒な靄が漏れ出し急激に立ち込め始めた。それは苦しむ男の全身をあっという間に覆い尽くし、悲鳴も、苦悶の顔も隠していく。
——そしてそこには、黒く、蠢く何者かが立っていた。
何も気が付かないまま、二人の女性の声がその場所へと近づいてくる。
「もう少し奥、だったかな?」
「中立図書館の本って、探すのも一苦労よねぇ……ん? ねぇなんか臭わな……——え?」
女性たちは、角を曲がったところにいた、黒い物体を見て、立ち止まった。
釣り上がった眼窩、三日月型の口元。自分たちよりも大きな体は、黒いただの塊のようにも見えるが、それには意志があった。
かたまってしまった二人を、その視線が射抜く。
「え……あ……」
「——うあっ……う、な、なに……!?」
そのとき一人の女性が、腹を抑えながら苦しみ出した。
黒い靄を吐き出し、その姿はそこにいる何者かと瓜二つになっていく。
「あ、や……いやああぁぁっ!!」
友人が目の前で変化していく様を目の当たりにした女性は、大きく悲鳴をあげた。
そのときリベルとトワユは、もうひとりの男性職員と共に、その日の仕事をこなしていた。
司書たちが来訪者に対応する円形の窓口の中で、書類を作ったり、本の整理をしたり。
ふと、トワユが仕事用の丸眼鏡を取り外しながら顔を上げる。
「……?」
「どうかしたか?」
トワユが怪訝そうな顔をして、遠くを見つめているところに、男性職員が声をかける。
その様子にリベルも遅れて気がついた。
「いや……なんかさぁ」
トワユの小さな鼻が、ひくひくと動く。
「臭くない?」
そんなことを言われた細縁眼鏡の彼は、嗅覚に神経を集中させてみる。
「……いや? なんの臭いがするんだ?」
「うーん……霊素の流れがなくなっちゃった土地の、水場の臭い、みたいな……」
「あー……いやでもそんな強そうな臭いは……」
「逃げてください!! 早く!!」
二人のやりとりに割って入るかのように、怒声とも感じるような音が響いた。
何が聞こえてきたのか、その場にいる全員が理解するより前に、一般図書のエリアから大勢の利用者が駆けてくる。
それと同時に、悲鳴。大きなものが倒れる音。
「な、なに……っ?」
困惑の声が、リベルから漏れる。
利用者が逃げていく波に続いて、警備担当の職員が走ってくる。
彼は必死の形相で叫んだ。
「皆さんも外に!! ルゴスです!!」
「えっ?」
トワユはその言葉を聞いて、反射で肩をびくつかせた。友人の顔が脳裏をよぎる。
すると奥から、ぬうっと黒い頭が突き出てきたのが、見えた。
ひとつ。ふたつ。……みっつ。
それをトワユもリベルも、そして男性職員も言葉も出ないまま見つめていた。
近くにいた利用者たちも、騒ぎを聞きつけて、警備員の誘導に従って慌てて外へと向かっていく。
ルゴス——あれが。
呆然としているトワユの脇で、突然、苦悶の色に染まった声が漏れた。見ると、男性職員が腹のあたりを両腕で抑えて体を傾かせている。
「……!」
トワユの目の前で、男性職員は悲鳴の代わりに大量の黒い靄を吐き出し始めた。
「トワユッ!!」
リベルの声が、トワユの意識を引き戻す。
二人がその場から離れようとしたその瞬間、靄に包まれた彼は、こちらに向かってくる黒い群れの仲間になった。
警備員の必死の叫び声が響いている。
「早く!! こっちです!!」
ひとり、またひとりと中立図書館の出入り口を潜っていく。
遅れたリベルとトワユも必死で駆けていた。
しかし、リベルは突然立ち止まり、出口への通路から少し外れた一角へと向かっていった。
それは彼女の、責任感がそうさせたことを、警備員が気がついたときには遅かった。
リベルの拳が壁にかかっていた非常用のガラスを突き破る。中にある掌サイズの術具を取り出したリベルは、トワユたちが施設の外に躍り出たのを見て、手にしたそれをぎゅっと握りしめた。
トワユが振りかえる。
「リベル! 何してるの早く!」
リベルは出入り口へと駆け出そうとした。
しかしその背に、あの怪物たちの異様な声が迫ろうとしているのを感じた。
リベルの足が扉の前で止まる。トワユの目が見開かれた。
名前を呼ばれるよりも先に、リベルは術具のスイッチを押し込んだ。
すると、術具はその身から青い光を一瞬放ち、建物中に結界の術式を広げていく。
トワユは驚いた顔で出入り口に駆け寄った。が、口を開いているそこに、トワユの体は通ることができない。
「私が残る! 早く救援を呼んで!」
「そんな……!!」
「この結界も、ルゴスに対していつまでもつかわからないから! 頼んだわよ!」
それ以上言葉が続かないトワユの前で、リベルは踵を返し、施設の奥へと走っていってしまった。姿はあっという間に見えなくなる。
彼女の背を、黒い集団が追っていった。
「きゅ……っ、救援要請ーっ!!」