大閻羅と七閻魔

 ここは、重き魂がたどり着くあの世——落界(らっかい)。
 人の世では、地獄、冥府、はたまた黄泉と様々な言葉で表されているが、罪を抱えて“落ちる場所”であることに変わりはない。
 今日も今日とて、落界の裁判の場に立たされる、落ちた魂がひとつ。彼のすぐそばには屈強な鬼族が二人。そこを見下ろすように囲う七つの席にはそれぞれ、七閻魔(しちえんま)と呼ばれる七人が座していた。
 七閻魔たちは、それぞれの眼差しで男を、食い入るように見つめている。
 そして、魂の真正面に位置する、一際高く聳え立つ大きな木製の椅子があった。装飾は控えめでありながら、黒く滑らかな年月を感じさせる無機物。それは異様なまでに巨大であった。男の目は、そこに引きつけられた。一体、どんな存在がそこに座するというのか——と。
「本日の裁判を、開廷いたします」
 高い鬼の声が響いた。
「大閻羅(だいえんら)様の、ご入廷でございます」
 場にいた誰もが、その声と共に中央の座席を見た。
 影が近づく。足音が響く。
 それらの主らしき存在が、巨大な黒い椅子へとやってきた気配に男はゴクリと喉を鳴らした。
「おまたせいたしました、みなさん」
 鬼族、そして七閻魔たちまでもが、恭しく頭を深々と下げる。
 その仕草に、男も真似をするように頭を垂れた。その格好のまま沈黙していると。
「大閻羅様……お手伝いいたしましょうか?」
「い、いえいえ。大丈夫っ……です!」
 すとん、と着席の音。
 男が不思議に思い、それでも恐る恐る顔をあげると——あの巨大な椅子には、小さく華奢な輪郭があった。椅子との差が明確で、逆に存在感が印象的なその姿は、男がどう目を細めてみても……少年然としたものであった。
 椅子の座する部分に全身が収まって、足が地面に届かないため、あぐらを掻いている。
 少年は手元の書簡をぱらぱらとめくった。
「さて、はじめましょう——この魂の罪に目は通しています。七閻魔の意見を、先に」
 少年の言葉を聞いて、男は、はたと目を見開いた。
 そして、その場にいる誰よりも先に、大きく口を開く。
「俺は殺されたんです!」
 男の声が場に響いた。
「あの女の兄に、突然、刺された。何度もです。話をしに行っただけなのに。裁かれるべきは、俺ではなく、あの男でしょう!」
 左右に並ぶ閻魔たちは、誰ひとりとして顔色を変えなかった。
「あなたが殺害された事実は確かに認められている」
 右手側から、硬質な声が返る。責の閻魔だった。
「その責は、あなたを殺した者の魂が落界へ至った折に、改めて審理されることになる」
「だったら——」
「ただし、それによって、あなた自身の責が軽くなることは、ない」
 男は言葉を詰まらせた。少し俯き、口の中で何かをぶつぶつと言ってから、悲壮の顔を作って責の閻魔を見た。
「俺に、何の責任があるというんです。あの女が勝手に逃げて、勝手に足を滑らせた。俺は彼女に指一本、触れていない!」
「ええ。触れてはいないわね」
 今度は左手から、静かな女の声がした。
「それでも彼女は、帰り道を変え、職を辞し、住居を捨て、親しい者との繋がりまで絶った……」
 響の閻魔は、男ではない、どこか遠くにあるものへ耳を澄ませるように目を伏せていた。
「あなたの足音を聞くたびに、彼女の胸は強く脈打った。似た背格好の者を見かけるたび、呼吸が浅くなった。戸を叩く音に怯え、眠りから幾度も飛び起きた。あなたは触れることなく、彼女の暮らしの隅々にまで入り込んでしまったようよ」
 男はそれを聞き、堪えきれなかった笑みを口元に宿した。
 ふと、目を見開いた響の閻魔はそれを見逃さず、冷ややかな色を注いでいる。
 卑しい笑みが張り付いた口を隠しもせず、男は強気にも続けた。
「——しかしそれは、あいつが俺を誤解していたからだ! 俺はただ、話し合いたかっただけです!」
「話し合い、ですか」
 次は、意の閻魔が、わずかに首を傾けた。響の閻魔はすでに目を閉じている。
「彼女はすでに、あなたの申し出を断っていたはずですが」
「そんなものは、本心じゃない……! 周りの連中に、そう言わされていたに違いありません。彼女の周囲の人間は、俺と彼女の邪魔ばっかりしていたから……!」
「ならばお聞きしますが、あなたが望んでいたのは、本当に、彼女自身からの答えだったのですか?」
 声は穏やかに、しかし的確に問いかけた。
 男は、意図を解せていないような顔つきでいた。
 その表情を、意の閻魔はおかしそうに笑って見ている。
「あなたは、あなたが正しいと思う答えを、彼女の口から言わせたかっただけではありませんか? 残念ながら、それを話し合いとは呼びませんよ」
「——違う!! 俺はあいつを愛していたんだ!!」
 叫びが、虚しく響く。
 意の閻魔は頬杖をついて、私とも話し合いになりそうにないですね、と呟いただけ。
 少し息切れをしている男の斜め前、影の濃い一席で、深の閻魔がゆっくりと目を開く。
「彼女に拒まれたとき、あなたは悲しい、という感情には至ったか?」
「……な、何を——悲しいに決まっているじゃないか。だから俺は……!」
 深の閻魔の人差し指が、しっかりと男を示した。
「怒りを覚えただろう」
 はっ、と男は顔をあげた。その指先を食い入るように見つめている。
「己ほど彼女を思っている者はいないのに、なぜ自分を選ばないのかと。あなたの思いに応えぬ彼女が、恩知らずにさえ見えた」
「そんなことは……」
「あなたが愛したのは、彼女ではない」
 深の閻魔の瞳は、男の言葉ではなく、その奥底を見るように細められた。
「彼女に愛されるはずの、己こそを愛していた」
 男は何かを言おうとした。だが、その声が形になるより先に、別の席から言葉が落ちた。
「まったく。戻る道は、幾度も示されていたというのに」
 再の閻魔だった。
「彼女自身の拒絶。職場からの警告。人界の法による制止。そして、彼女が住まいを捨てたこと。それらはすべて、お前に立ち止まる機会を与えていた」
「……俺は、諦めきれなかったんだ!」
「あぁ、そのとおり。お前は諦めなかった」
 再の閻魔は、わずかに目を伏せた。
「お前は、そのすべてを“二人を引き裂こうとする障害”へ作り替えた。そして今もなお、過ちから戻る道を拒んでいる」
「ふふ——死んだ後、までもな」
 執の閻魔が、冷ややかに口を挟んだ。
「生きている間、彼女はお前を拒めた。逃げることも、助けを求めることもできた。だが死者は、もう何も言わん」
 男の喉が、ひくりと動く。
「だからお前は葬儀に現れ、遺族の前で恋人を名乗った。彼女の死まで、自分との結びつきに利用した。ようやく、好きなように語れる女になったからだ」
「ち、違う!」
 男は一歩退いた。
「あいつも本当は、俺を——それを証明したかっただけだ!」
 再の閻魔と執の閻魔は、顔を見合わせ、やれやれとでも言いたげに首を振る。
「あなたは、自身を“愛する者の幸福を願う人間”と認識しているようですね」
 不意に、真後ろから酷く落ち着いた女の声がした。
 男は息を呑み、振り返った。
 そこにもまた、一席あったことを、男は今更ながら気がついて驚いていた。
 逃げ道を塞ぐように、統の閻魔が座していた。
「しかし、あなたが選び続けた行動の中に、彼女の幸福はありません。あなたの語る思想と、実際の行動は、ひとりの人間のものとして統合されていない」
 男の唇が震えた。
「ただし——あなたの行動に一貫性がなかったわけではありません」
 統の閻魔は淡々と続ける。
「“自分の解釈は、他者の意思よりも正しい”。あなたは生涯、その思想に従っています。愛を貫いたのではありません。自身の正しさを、貫いたのです」
「違う、違う……俺は、あいつのことを誰よりも考えていた。ずっと、あいつのために——」
「そのあなたの中に」
 統の閻魔が問う。
「彼女自身の意思は、一度でも存在しましたか」
 男は何も答えなかった。
 正面を向けば少年がいる。左右にも、背後にも、逃れられる場所はなかった。
 巨大な椅子の上で、大閻羅は黙って男を見ていた。
 怒りも、嫌悪も浮かんでいない。ただ、男が言葉を探し尽くすのを待っているようだった。
 やがて少年は、膝の上で小さな両手を組んだ。
「では、私からひとつだけ、伺います」
 その声は、閻魔たちの誰よりも柔らかかった。
「あなたは、彼女が嫌がっていることを知っていましたね?」
「……だから、それは、あいつが誤解をしていて」
「知っていましたね?」
 同じ問いだった。
 男は口を開いたまま、声を失った。
「知らなかったのではありません」
 大閻羅は静かに言った。
「あなたは知ったうえで、彼女の意思を、間違いとして扱ったのです」
 その瞬間、男は初めて、目の前にいる少年を恐ろしいと思った。
 大閻羅は、男が黙り込んだことを確かめると、傍らの鬼へ小さく手を差し出した。
 鬼が恭しく差し出したのは、黒い木簡だった。少年の手には余るほど長く、厚い。大閻羅はそれを両手で受け取り、膝の上に置いた。
「それでは、判決を申し渡します」
「ま、待ってください」
 男が声を上げた。
「まだ、俺は納得していない。あいつの兄のことはどうなるんです。俺を殺したんですよ。俺は被害者でもある!」
「ええ。先ほど申し上げたとおりです」
 大閻羅は、木簡から目を上げなかった。
「あなたを殺害した者には、その者の裁判があります」
「なら——」
「それは、あなたには関係のないことです」
 少年の声は、少しも荒らげられていなかった。
「その方の罪は、その方のものです。あなたの刑を軽くするための道具ではありません」
 男の口は閉じられた。
 それを見届けると大閻羅は木簡を開き、しばしの間。
「——当該の魂には、他者意思の継続的侵害、生活領域への侵食、恐怖による自由の剝奪、死亡結果の誘発、ならびに死後の尊厳に対する侵害が認められます」
「死亡結果って……お、俺は突き落としていない!」
「はい、そうですね。それは明らかです」
 大閻羅は、あっさりと認めた。
「ゆえに、あなたを直接殺害の罪では裁きません」
 男の顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。
「あなたは、彼女が逃げなければならない状況を作り、それを理解しながら追い続けた。その結果について裁きます」
 安堵の表情は、瞬く間に消えた。
 構わず、大閻羅の少年らしい高い声が響いていく。
「第一の刑。響苦刑、百年」
 響の閻魔が、静かに目を閉じた。
「この刑では、あなたの行為によって生じた恐怖を、あなた自身の魂へ返します。彼女が背後の足音に怯えた夜。帰る場所を知られた絶望。誰にも信じてもらえないのではないかという不安。逃げても追われると知った瞬間——それらを、彼女の側から経験していただきます」
「……そ、それを、百年も……?」
「彼女の恐怖は、死の瞬間までありました」
 大閻羅は言った。
「あなたが彼女の暮らしへ入り込んだ日から、亡くなるまで続いています。百年は、その重みを魂が受け取るために必要な期間です」
 男は鬼を振り切ろうと身じろぎした。左右から伸びた太い腕が、たちまち両肩を押さえる。
「第二の刑。断執刑、百五十年」
 今度は、執の閻魔が男を見た。
「響苦刑を終えたのち、あなたを断執牢へ移します。そこには彼女の姿も、声も、名もありません。彼女にまつわる記憶を使ってご自身を慰めることも、彼女の意思を作り替えることも許されません」
「彼女を忘れろというのか……?」
 少年は首を横に振った。
「忘却は、あなたを罰から遠ざけます。覚えたまま、求めることだけを禁じます」
 男の顔が引きつった。
「あなたは百五十年、誰にも近づけず、誰からも応えを得られない場所で、ご自身の執着だけと過ごします。彼女を得られない苦しみではありません。あなたの内にある渇望が、彼女とは無関係に、あなた自身から生じていたことを知るための刑です」
「そんな……そんな長い時間を、ひとりで?」
「彼女は、ひとりになることを望んでいました」
 少年は、初めて木簡から顔を上げた。
「あなたは、それを一度も許しませんでしたね」
 男は息を呑んだ。
 こんな恐ろしいことを、淡々と告げてくる少年の姿が、何よりも大きく感じてくる。
「第三の刑。黙照刑、五十年。断執刑ののち、あなたの生前を、他者の視点から見直していただきます。あなたはその間、発言を許されません。誤解だった、愛していた、悪気はなかった——そのような説明を挟むことなく、ただ、ご自身の行いを見届けます」
「……何も言えないのですか」
「彼女の言葉を、あなたが聞かなかったためです」
 大閻羅は、ごく穏やかに答えた。
「今度はあなたが、黙って聞く番です」
 彼の声がすべての刑を言い渡した後、辺りは静まり返った。
 少年は木簡を閉じた。
「以上、三刑は併行せず、順次執行します。響苦刑百年、断執刑百五十年、黙照刑五十年。刑期は合わせて三百年です」
「三百年……三百年も……」
 男が、わずかに顔を上げる。
 そこには顔色ひとつ変えず、大きな椅子の上に座っている、小さな姿がある。
 目が合うと、少年はまた口を開く。
「三百年後、再び裁判を行います」
 何を言われているのかわからない顔のまま、男は問い返した。
「……それは、一体、どういう……裁判は、今終わるところではないですか」
「その時点で、あなたが他者の意思を、ご自身の願望とは別のものとして認められるか。拒絶を拒絶のまま受け取り、相手を変えようとせずにいられるか。再の閻魔をはじめ、七閻魔が改めて審議をします」
 再の閻魔は、何も言わなかった。
 その沈黙が、男の期待を押し潰した。
「認められなければ……?」
「初めから、もう一度です」
 少年の声が、広い審理場へ静かに落ちた。
「響苦刑より、三百年を再執行します。必要であれば、何度でも」
「何度でも……?」
「あなたが他者をひとりの人として見るまで」
 男の顔から血の気が引いた。
「……お、終わらないかも、しれないということですか」
「それを決めるのは、あなたです」
 大閻羅は、わずかに首を傾けた。そこだけを見れば、話の分からない大人へ教える少年のようですらあった。
「あなたは生前、彼女が答えを変えるまで追い続けるつもりでしたね」
 男の肩に置かれた鬼の手が、強く沈む。
「落界は、あなたが変わるまで待ちます」
 巨大な椅子の上で、手を伸ばし、少年は木簡を鬼へ返した。
「魂は、質を変えることはあれど、そう簡単に朽ちはしませんから」
「待ってくれ……俺、俺は、本当に——」
「判決は以上です」
 大閻羅が告げる。
 それだけで、男の声は途切れた。
 怒鳴られたわけではない。睨まれたわけでも、脅されたわけでもない。
 ただ、その言葉を境として、男が何を訴えようと、もはや判決には何ひとつ届かなくなった。
「執行の準備を」
「御意」
 鬼族たちが、一斉に頭を垂れた。
 男は両腕を取られ、なおも足を踏ん張った。
「嫌だ。三百年なんて、そんな——俺は殺されたんだぞ! 俺は被害者なんだ!」
 引きずられていく男を、大閻羅は静かに見送っていた。
 扉が閉じる直前、男は最後に少年を振り返った。
「どうして俺が、こんな目に遭うんだ!! あいつを、あいつにただ、わかってほしかっただけなのに——!!」
 それは、死の間際にすらも、その男が抱いた疑問だった。
 どうして自分は報われないのか。こんなにも、彼女を愛しているのに。
 その声に応えるものは、いなかった。



「あーーーーーーもう仕事辞めたいですーーーーーーー毎日毎日、なんでこう裁くのに脳みそフル回転しないといけないような魂ばっかりくるんですかもう無理。過労死してしまいます仕事辞めたいーーーーーー」
「大閻羅様。またそんな出来もしないことおっしゃらないでください」
 他に誰が、職を継げるんです?と、その鬼族は最早何度言ったかわからないセリフを、さらさらと言ってしまう。
 枕に顔を突っ伏したままの少年が、呻くような声を出した。
「そんな仰々しい名前で呼ばないでください……」
「では、大王様」
 少年は、不満げな顔を起こし、お付きの鬼族へと視線をやった。
「それも仰々しいです……」
「他に呼び名がございません」
「ううぅ……もっとかわいい名前が良かったです……」
「落界が決められた名前に、罰当たりなこと言わないでください」
 落界へと落ちてきた罪深き魂たちの罰を決める多忙極まる日々に疲れた大閻羅は、今日も自宅で、枕を濡らすのだった。




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