埃臭く、古さが時間を問わず空気として漂う室内。
リベルは中立図書館の中でも、この空間が特に好きだった。
職員の中でも一定以上の勤続年数がないと入室の許可を得られない、特別書庫。冥界中の様々な禁術に関する書物が収められ保管されているそこは、これまでの多様な信仰や思想、時間に触れられる。
そんな場所に、自然と足が向いたのは、恐怖と焦りに追いつめられた結果なのかもしれなかった。
……馬鹿なこと、しちゃったかなぁ。
室内の隅。大きな机の陰に身を隠し、しゃがんだままの体勢で首を項垂れさせていたリベルは、床へと、吐息した。
目を閉じると、夫の顔がどうしても浮かんでくる。頭の回転が早い彼だったら、もっとマシなやり方が浮かんだんだろうか?
それにしても、救援ってどれぐらい待てばくるのかしら。こんなこと、初めてだし見当もつかない……転移術——……は、最近では使うこと自体が危険だから禁止されているらしいし……そういえば死神と悪魔、どちらの救援が来るんだろう? 中立区だからどちらから来てもおかしくはないけど……というか、もう本当に私しか残っていないの? 逃げ遅れた人を探す余裕もなくて、ここに逃げ込んだけど、ここ以外はもう、あの化け物だらけかもしれないわよね……?
リベルの思考は、静寂から逃れたいかのようにぐるぐると回り続ける。
もう何度目になるかわからないため息が落ちた。
足、痺れてきちゃったな……と、すっかりかたまってしまった自分の足首にそっと触れたときだった。
ギッ、と鳴ったのは、扉が動いた音だと、リベルの頭が瞬時に理解する。
喉が反射で縮み、鼓動が大きく揺れ出した。
リベルがいる位置からは、この部屋の唯一である扉の方は見えない。首を伸ばさなければならないが、扉の方に顔を出す勇気はない。
ギギ……ッと扉はさらに開いて、音はやむ。
一体誰……? あの化け物……そんな知性があるようには見えなかったけど……それとも——……。
リベルが違和感を抱く間にも、音は続いた。
カツ……カツ……軽く、穏やかな足の運び。
「……あのぉ」
リベルは咄嗟に顔をあげた。女性の声だ。
不安げに揺れたそれには、聞き覚えがあった。
「だ、誰か……いませんかぁ?」
ここに入れる、という時点で一般来訪者ではない。職員の誰かだ。あまり交流はないが、その声と喋り方で、記憶の底から、掃除道具片手に忙しそうにしている彼女の顔が浮かび上がってくる。
もしかして、逃げ遅れたの? ひとりで彷徨って……ここに?
「——い、います! リベル・ノトゥリアです! 危ないですから、こっちに——!」
痺れが走っていたはずの足は、すんなり伸びた。
身を乗り出すようにしてリベルが、声の主へと呼びかける。
「……え」
リベルの顔が、安心で綻びる寸前で、かたまる。
そこには、黒い——黒い、何者かがいた。
身の丈はとても高く、彼らを構成するのが液体なのか粘体なのかもわからないが、ぐずぐずと形を常に変えている。
悪意と飢餓しか感じない釣り上がった目元に、笑みを讃える裂けた口。
眼窩には瞳もないのに、ぎょろりと、その視線は確実にリベルを捉える。
「リベルさぁん。よかったぁ。怖かったですぅ……」
「あ……あ……」
三日月のような形をしたその口が、がくがくと揺れながら、聞き覚えのある女性の声を出し、口調を真似ている。いや、真似なんてものではない。間違いなく、彼女であった。
リベルは腰から、床へと崩れてしまった。
恐ろしくてたまらないはずなのに、視線はその黒さから引き離せない。ただただ、体が震えて、それに触れられてはいけないと頭の中で、自分の声が木霊し続ける。
黒い肢体から、ぬうっと太く長い腕が伸びた。
「ひ……っ!」
「リベルさん、救援、一緒に待ちましょうよう」
腕の先に、三本の鉤爪のような突起が、長く伸びて。リベルをその手に収めんと、躊躇いなく突き出されようとしたそのとき。
リベルの瞼は、涙に濡れた瞳をぎゅっと抑え込んだ。
「——あうっ!? あ、が……っ!!」
女性の痛みに悶える声が、聞いたこともないような濁った叫びへと変遷していく。
「ああああぁぁっ!!」
リベルが驚いて目を開いたときには、化け物の悲鳴と、その黒い体は空気に混じるように散っていくところだった。
黒い靄の奥から、女性の姿が微かに見えたかと思ったら、その体は力を失い倒れていく。
その向こうには見たことのある、青年がいた。
「リベル! 無事か!?」
あの恐ろしい黒い姿を散り散りにしたらしい緑色の鉱石でできたナイフを携えた悪魔族の青年。腰を抜かしたリベルの姿を確認すると、駆け寄ってきては腰を下ろして、リベルの顔を覗き込んだ。
リベルを見つけたカロメティオの安心したと言わんばかりの表情は、彼が何をしにここまで来たのかを、雄弁に物語っている。
目が合った途端、リベルの肩が、震え出した。
「う……っ」
「リベル? どうした、怪我とかは——」
「うわああああぁぁ……っ!」
大粒の涙を溢しながら、リベルは目の前の青年に、必死でしがみついた。
その様子に、カロメティオの口から、ふっと息が漏れる。
号泣しながら、その安堵を確かめるかのように全身ですがりついてくる彼女を、カロメティオはしばらくの間、受け入れ続けた。
二人が外へ出たとき、ようやく死神軍が到着し、遅れて悪魔族の戦闘員らがやってきた。
館内にルゴスがいなくなったということを知ると、死神軍は感染者の救助に向かっていく。悪魔族は万が一のため、施設内と周囲を巡回するようだ。
リベルをトワユに預けたカロメティオは、両方の代表者を集めて、図書館内で拾った青黒い本を見せる。
「感染源が本……?」
にわかには信じ難い、と言いたげな死神。その脇で、悪魔族の戦闘員がまじまじとカロメティオの手の中にある本を眺めている。
「認知感染を引き起こす術が仕掛けられている。あ、おそらく、だ。どの程度の強さのものかわからんから、俺もまだ開いていない」
死神が顎に手をあてる。
「だとしたら、そんな本がなぜここに」
戦闘員の悪魔族の男は肩をすくめた。
「外部から持ち込まれたってことだろうな」
軽い調子で話したその男に、カロメティオはそのとおり、と言いながら本を押し付けた。
「死神は認知感染しやすい。万が一のことを考えて、悪魔族が調査した方がいいだろう。公式に則って手続きしたら、俺のところに持ってこい」
本に、恐る恐る、悪魔の指が伸びる。
「えー……まぁ確かにそうだし、いいけどさ。大体、どこのどいつが持ち込んだんだよ」
「いつからあったのかも今の段階では不明だろうしな……」
死神の発言を聞き、カロメティオは視線を横へとやった。いつからあったのか。
本を寄贈するんだって、という幼馴染の言葉が思い出される。そして、泥棒の話も。
もしかしたら、と、思考が繋がる。
「参考になるかわからんが……少し前に、霊衡局から中立図書館に本の寄贈があったはずだ」
「……! それは本当か」
「あぁ。犯人の糸口を探すなら、そっちが手っ取り早いかもしれん」
すると話を聞いていた悪魔が、本を頭に乗せてバランスをとりながら告げる。
「そういうことなら、俺がはかりに連絡入れて調べてもらうよ」
「頼む。あと、泥棒についても調べておいてもらえるか」
「……泥棒?」
悪魔族の男は、しきりに首を傾げていた。そして悪魔側は霊衡局に、死神側は中立図書館に調査を広げることになる。
あの本はカロメティオの手を一時離れていった。
「リベル!!」
カロメティオの目の前を、大きな声と共に、中年の男が横切った。大慌てといった様子で、落ち着きを取り戻したリベルのもとへと駆け寄っていく。
彼はリベルに近づくや否や、彼女の体をきつく抱きしめていた。
何度も、彼女の名前を呼んでは、良かった本当に……とリベルの代わりに泣きそうな声を出している。
そのやりとりを眺めていると、リベルがカロメティオの存在に気がついて、男の腕を叩いた。すると男が、ゆっくりとカロメティオの方を振り返る。
そして二人そろって近づいてきた。男は、カロメティオの前に立つと深々と頭を下げてきた。
「カロメティオさんとおっしゃいましたか。このたびは本当に、ありがとうございました……! なんとお礼を申し上げたらいいのか……!」
「——あ、ごめんなさい。私の夫よ」
「あぁ、なるほど」
だからこんなにリベルのことを——そう納得していたカロメティオに、リベルの夫である男は、握手まで求めるほどだった。
死神と握手とは、珍しいこともあるもんだ、とカロメティオが思っていると、男は落ち着いた声で続けた。
「先ほど聞いたのですが……なんでもお一人で施設に入られたと」
そうだな、とカロメティオは何気なしに相槌をうった。すると男の目が、驚いたように見開かれる。
「なんと……戦闘員の方なんでしょうか?」
「あ、いや。知識が役に立っただけだ」
カロメティオがかぶりを振る。男は、きょとんとした顔で、知識……?と口の中で呟いたかと思ったら、みるみる顔が上気していく。
「——も、もしや! ヴィマンシャ家の方ですか!? あの、ルゴス感染治療の第一人者という……!!」
男の声の力が急激にあがったのを間近で聞いて、カロメティオとリベルの肩が同時にびくついた。
「あー……それは、父親だな」
「ご子息!? あの、今度よろしければお話を……!!」
時折裏返る声が、如実に男の興奮を表している。
リベルは最早呆れ返った様子で、夫が少年のように顔を輝かせるのを見ていた。そこにトワユがやってくる。
「……ねぇリベル。旦那さん、カロ君にめっちゃ興奮してるじゃん……?」
「……妙な言い方しないで」
リベルの夫に前のめりになられているカロメティオは、やや圧倒されているように見えながらも、なんとか会話を続けている。カロメティオの言葉ひとつひとつに、男は興奮をますます高めていっていた。
そんな光景を前に、リベルとトワユは目を見合わせると、思わず、吹き出すように笑ってしまうのだった。
あの世四界冥界篇「腐りゆく書に、願いを」
END