お前のことを探している女がいるぞ、という話をセマルドセマルド・レカム
悪魔族。外見年齢二十代前半の男。紋様術の使い手で、戦闘員。詳しくはキャラクター紹介ページへ。が聞いたのは、行きつけの酒場でのことだった。
いち戦闘員としての任務終わり。いつもの儀式のように、仲間たちと共に駆け込んでまずは一杯——その最中に、酒場のマスターにそう声をかけられたのだ。
「女ぁ?」
「おいセマルド。昔泣かせた女の一人じゃねぇの?」
仲間の一人がそう茶化してくる。
「女を泣かせるようなことしたことねーよ」
別の仲間が笑った。
「泣かされてんの大体お前だもんな」
「うるせっ」
仲間たちと囲んだテーブル一帯が笑いに包まれる。
酒場のマスターは、酒がなみなみと入ったジョッキをひとつひとつ置きながら、視線はセマルドの方を向いている。
「ベルヴァっていう女でな」
セマルドには聞き覚えのない名前だ。怪訝そうにする青年に、悪い子じゃない、とマスターが添える。
「ちょっと変わっちゃいるがな……なんでも、お前に聞きたいことがあるとかで。会ってみちゃくれねぇかな?」
「うーん……マスターがそう言うなら、別にいいけど」
セマルドに了承をもらえたマスターは、ひと安心といった様子で吐息した。
普段仏頂面が目立つ彼のそんな表情を見て、セマルドは首を傾げる。
「なぁマスター」
「ん?」
「マスターがそういう橋渡し、みたいなことするの、珍しくね?」
青年の指摘がずばりとあたったのか。中年を越えた貫禄のある顔つきに、ほんの少しだけ揺らぎが訪れる。
男は、セマルドと目線を合わすことなく、ぽつりと告げる。
「ま……うちの娘が仲良くしてる子からの頼みだったからよ」
「え、マスターって子供いたの? まだちっちゃい?」
「……ガキンチョだな」
「マジか。初耳」
仲間たちが、二人の会話に混じってきては、やいのやいのと話題を広げていく。
悪魔族のほとんどは母体を経て産まれるが、子供を生涯でもうける悪魔は一般の出では滅多にいない。悪魔族の中で、「子供」という存在は、珍しく貴重な形ではあった。
「てめぇらも、どこぞのモンから生まれてきてるだろうが。ほれ、俺のことはいいから、料理決めな」
呆れたような吐息まじりにマスターが言い放つと、それもそうかと若者たちはメニューを開き始める。
その間に、マスターはセマルドへと改めて、「詳しいことはまた後で話すから待っててくれよ」と告げて、店の奥へと引っ込んでいく。
——セマルド・レカムという、紋様術の使い手を知らないか。
酒場のマスターが問いかけられた事柄は、そういった話だったらしい。
家名まで含められたことと、紋様術という言葉を知っている女。セマルドが、やや警戒を示したことをマスターは感じ取ってはいたようだった。
だからもう一度、悪い子じゃない、と付け足された。
セマルドが使う紋様術は、冥界広しと言えど、一般人が誰でも知っているような術ではない。
使い手も非常に限られていることから、興味本位で探りを入れてくる悪魔は多い。しかし同じ戦闘員であれば、そういったこともわかる。しかしどうやらその娘は、一般人、であるらしいのだ。
どうやら色気づいた話ではない。紋様術に用事があるのだと、セマルド自身もわかっていた。
日頃から世話になっている男から言われたことでなければ断っていたかもしれなかった。
セマルドは指定された日に、とあるカフェへとやってきていた。
普段ならばあまり赴くことはないような、落ち着いた佇まいでありながら、新築のように綺麗な白い煉瓦の建物の店だった。
そこの扉を潜る。
いらっしゃいませ、と、店員が声をかけてきたのを聞いてから、店の中をぐるりと見回す琥珀の目。
何人か客は見えていた。
マスターから聞かされていた、彼女の特徴を思い出しながら店の中を進んでいく。
少し奥へと進んで、セマルドの足は止まる。
——その女性を見つけたとき、真っ先に目に入ったのが、羊のような角だった。
彼女の左側頭部から、ゆるやかな曲線を描き、濃い色の髪の間から姿を見せているそれは、丸みのある先端が頬をくすぐるような位置まできている。
やや白味を帯びた見た目は、彼女の透き通るような白い肌によく映えていた。
悪魔族には彼女のような角を持つ者も珍しくはない。
羊、山羊、闘牛と形の成りはそれぞれだが。
(マスターが言ってたとおりだ……片角なんて珍しいな)
左側だけにある片角にあわせてなのか。彼女の長い髪は左に流されて、顔の半分を覆っている。
そのとき、セマルドに向けて、彼女の右目が動いた。
紅さを混ぜた金色。見る者が見れば、まるで情熱的な色をしたそれと、目が合う。
「……あなたね」
彼女は一目見るなり、セマルドが目的の人物だとわかったようだった。
すっと立ち上がり、セマルドの方へと歩み出ていく。カツカツとヒールの音がやけに耳に響いた。
「はじめまして」
「あ……はじめまして」
差し出される女性の掌に自分の手を重ね、互いに握り合う。
「ありがとう。時間をとってくれて」
セマルドは少し意外に思った。自分を探し求めている女性の悪魔なんて、一体どんな悪魔だろうと想像は膨らませていたが、セマルドの予想は外れる。
目前にいる女性は、顔半分が髪の毛で隠れているとは言え、その顔立ちは、美女と呼んでいいほどであった。
しかも——悪魔には珍しいぐらいに礼儀正しく、きちんとしている。
自分よりもやや年上に見える女性の、そんな振る舞いに内心気圧されながら、セマルドは首を横に振って見せた。
そんなセマルドの仕草に、女性が小さく笑う。
「ベルヴァ・アルシアベルヴァ・アルシア
悪魔族。外見年齢二十代後半の女。豊満な美女。詳しくはキャラクター紹介ページへ。よ」
「セマルド……っす」
「よろしく。どうぞ座って」
セマルドは促されるまま、彼女が座っていた席の向かい側へと腰を下ろした。
ベルヴァの手元にはすでに飲み物が置かれていた。店員に手早く飲み物を頼んだセマルドを見てから、早速だけど、と口を開く。
「紋様術の使い手なんでしょう、あなた」
やっぱりそっちに用があるのかと、セマルドは小さく頷いた。
「家が代々そうなんで」
「えぇ、知ってる。レカム家。……ふふ。貴族のご子息と、こんなふうに顔を合わせることがあるなんて、思わなかったわ。マスターに感謝しないと」
——この女性は自分の家のこともどうやら知っている。紋様術と言えば、レカムの家。おそらく、それぐらいは。
しかし彼女の口調は、揶揄するような気配もない。
この状況への純粋な驚きと、敬意が見てとれる。
「……で、ベルヴァさんは紋様術について、何か聞きたいことが?」
飲み物が運ばれてくる。
店員が離れていってから、ベルヴァは、まぁそんなところよと頷いた。セマルドの目が細まる。
「でも私が知りたいのは、術じゃないわ」
「え?」
青年の目が丸くなった。
想像していない答えだった。
するとベルヴァはふと身を乗り出して、両腕をテーブルへとゆっくりと倒していく。胸の前で交差させたその仕草に、セマルドの視線は止まった。
「描き方を、知りたいの。基礎から」
「は?」
二人の視線はかち合うも、セマルドはいまいち状況が飲み込めていなかった。そんなことを請われたのは、初めてだったからである。
「……描き方?」
「そう。描けるようになりたいのよ」
少しの間。
セマルドは困ったように首を傾げてから、問いかける。
「なんで紋様の描き方なんて学びたいんスか?」
セマルドの問いかけに、ベルヴァは簡単な一言で返した。
「仕事よ」
「へ?」
相手の反応に、ベルヴァの口元が、あ、と開く。まだ言ってなかったわね、と前置きをした彼女は軽く、頬杖をついた。
「私、絵描きをしているの。画家」
その答えに、セマルドは目を丸くした。純粋に、驚いたという反応だった。
目の前の美女の指に、思わず目が落ちる。
爪先は綺麗に切り揃えられていて、彼女の目の色によく似たマニキュアがその形を彩っている。指の造形は細く長く、仕草までしなやかだった。
「今、依頼で描いているものがあってね」
「おぉ……すげーっすね。他人に言われたもの描き出すって、大変でしょ」
セマルドが素直に口にした言葉に、ベルヴァはやや気恥ずかしそうに目元を歪ませた。
その反射的なものを隠すように、続ける。
「まぁね。その依頼の絵が、貴婦人が壁際に立っているっていう構図なんだけど」
ベルヴァの指先が、筆使いを表すかのようにくるりとまわる。
「依頼主が、背景に紋様を描いてほしいっていうのよ」
「——なるほど」
「それで私も困ったの。紋様なんて知識もないし……その依頼主も、紋様みたいな、としか言わないわけ」
セマルドの口元がおかしそうに歪んだ。どんな依頼主かはわからなかったが、雲を掴むような依頼に困惑した反応をしたのであろう彼女の絵面が、頭の隅に浮かぶ。
「で……いろいろ調べたら、知り合いに『紋様と言えばレカム家だ』って聞いてね」
「はぁ……にしても、よく俺のことまで調べたっすね」
肩をすくめるベルヴァ。ここに至るまでの彼女の労力が、ため息となって現れる。
「偶然よ。レカム家っていう名前もそのとき初めて知ったの。そしたらメランジュに、レカム家の長男が所属してるっていうじゃない」
メランジュ、というのは一般の悪魔たちが戦闘員をまとめて呼ぶ時の通称だ。
本来は所属先がもう少し細かく分かれている。セマルドも戦闘員としての所属先の名前は「オルタヴォア」という。しかし、組織に属していない多くの悪魔たちからすれば、そんなことをいちいち覚える気にはならない。
だから、戦闘員はまとめてメランジュ。
——確かこのメランジュっていう呼び名、酒場のマスターが言い出したんだよなぁ……所属の話してたら、めんどくせぇ、とか言い出して。そんなことをセマルドは思い出す。ひとりの悪魔が言い出した通称が、こうやってすっかり浸透しているのを目の当たりにした。
「でも私、メランジュに知り合いはいないし——で、酒場のマスターだったら何か知ってるのかしらと思ったら……」
本当に知っていた、ということだった。運が良かったのよね、と片角の女性は控えめに笑った。
「……まぁ、そういったわけで。紋様の描き方を基礎から教えてほしいの。……どうかしら?」
「あー……そうっすね。俺、人に教えるってしたことないんで、うまく教えられるかわからないんスけど……」
セマルドが腕を組みながらそう返答すると、ベルヴァの右目がぱっと明るい色を宿して開いた。
「教えてくれるの?」
「え? あぁ、全然。いいっすよ。俺でよければ」
ベルヴァの頬がほんのり染まる。それは嬉しさからくる高揚のようだった。艶めいたようにも見えるその表情に、セマルドは思わず見入る。
「ありがとう」
「——いえいえ。あ、じゃあ……基礎からって言ってたし、少しだけ座学、いいっすか?」
女性が頷いたのを見て、セマルドは咳払いをしてからゆっくりと話し始めた。
「紋様術の紋様は、唯一無二にして千人千色って言われてるんスよ」
ベルヴァの視線が斜め上で止まる。
しばらくすると、セマルドの元へ戻ってくるが、その表情はやや曇っている。
「矛盾していない?」
セマルドがにやっと笑う。それは少し嬉しそうな表情の崩れにベルヴァには映る。
「一見ね」
でも、とセマルドは続ける。
「絵と似てません? その人が描くものは唯一無二なのに、表現の幅は無限にあるっしょ?」
「……なるほどね」
ベルヴァの表情に、艶やかとも思えるような熱がのった。彼女は静かに頷くと、その意味を噛み締めるかのようにゆっくりと瞬きをする。
「同じ絵描きでも、意図しなければ、同じものを描けないのと一緒?」
「まぁ、そういうことっすね」
「へぇ……てっきり、決まった図形の羅列なのかと思ってたわ。奥が深いのね」
それは紋様のことをまるで知らないと素直に明かしたベルヴァらしい感想だった。
「じゃあ……術として言えば、魔法陣とも違うっていうこと?」
「もちろん」
ベルヴァの飲み込みの速さに、少し驚いた顔をするセマルド。
「魔法陣は、決まった図形を描いて、決まった呪文を唱えることで、確実に術を発動させるじゃないっすか。知識と記憶の塊。でも紋様っていうのは、そもそも人によって解釈が違うから、解釈できていない他人の紋様を使っても、同じ結果にならないんすよ。言ってしまうと、思考と思想の塊」
「……本当。絵と似てるわね」
「ね? だから、ベルヴァさんだったら、紋様の基本がわかれば、自由に描けるようになる気がする」
セマルドは楽しそうに笑った。つられて、ベルヴァも薄く笑みをこぼす。同時に彼女の指先は、今にも筆を握りたそうに忙しなくテーブルを叩き出している。
視線も少し位置を落として、セマルドには見えないキャンバスに己の解釈をのせた何かを広げているようだった。
——ベルヴァさん、絵が好きなんだろうなぁ。表現してみたくて堪らない、って顔に出てる。
セマルドは美しい顔立ちを間近で眺めて、そんな感想を抱いていた。
ふと、紅金の色が青年に戻ってきた。
「今日は、描くものを何も持っていないから、また後日、会ってくれないかしら?」
セマルドはふたつ返事で了承した。
そしてそれ以降、セマルドとベルヴァは会う回数を増やし、ベルヴァの紋様描きに尽力することになる。
そして幾日が過ぎた。
ベルヴァの絵描きとしての吸収力はセマルドが目を見張るほどだった。
紋様の基本的な知識と描き方など、あっという間に取り入れてしまい、己の解釈として描くに至るまでは然程時間はかからなかった。
そして最近になって本番に挑む覚悟ができたらしく、ベルヴァは自身のアトリエに篭っている。セマルドが街中でぶらついている間にも、依頼の絵を着実に進めていることだろう。
任務もないある日に、街中をひとり歩くセマルド。
そんな中も脳裏を過ぎるのは、ベルヴァの姿だ。
(しかしベルヴァさん、ほんとにすごいよなぁ……表現力も、技術力も……しかも死神の芸術分野にも精通してたし……美人だし、品も良いし)
あんな女性とお近づきになれるなんて、俺ってばラッキーだよなぁ、てか、紋様術さまさまか?——などと思いながら、鼻の下を伸ばしていく。
そのうちお礼と称して、何かイイコトあるかもしれない!……などと青年が欲望丸出しの妄想をノンストップで加速させていた、そんなときだった。
「なぁ、いいじゃん」
「俺らと遊ぼうぜ」
少し遠くから、低い声が届く。
セマルドは妄想から帰ってきて、ふっと足を止めて声のした方向を見た。
雑踏の中、そこだけ切り取られたかのように見えたのは、男が数人と、女ひとり。
セマルドは思わず目を見張った。
後ろ姿しか今は見えない女の頭から、羊によく似た角が生えている。
セマルドが首を伸ばすと、女の横顔が見えた。ベルヴァだった。
絵が一段落したのだろうか。
ベルヴァはどう見ても囲まれていた。男たちとの体格差は歴然。ベルヴァも華奢というわけでは決してないが、もしや戦闘員かと思うほどの印象で、男たちは彼女を取り囲んでいる。
遠巻きに見る様子は、ナンパだった。男たちは陽気に、ベルヴァと距離をつめている。
片角と顔を半分隠しているような髪の流れに遮られて、ベルヴァの表情はうかがえない。
誰かが見た目や空気感で見初めた相手を、その場で口説き出す、というのは悪魔街ではよくある光景だった。周囲を行き交う悪魔たちも、特にその様子を気にしている素振りはない。
セマルド自身も、もしベルヴァのことを知らなければ、また美人なおねえさんに寄ってたかってんなぁ、ぐらいのものである。
また悪魔にとってみれば、自身の魅力に吸い寄せられてきた相手を良しとする文化も強く、見初めてきた相手に対し、お目が高いと言わんばかりに受け答えすることも珍しくはない。
……正直、ベルヴァさんぐらいの人なら、あんなの日常茶飯事なんだろうな……とセマルドが思っていると。
パンっと乾いた音が聞こえてきた。
見ると、ベルヴァが肩に触れた男の手を叩き払ったところであった。
「なにしやがる!!」
用意されたワンシーンかのように、男が声を荒げた。
(ベルヴァさん……!)
穏やかではなくなった日常風景に、セマルドが彼女を庇おうと、一歩踏み出そうとした。
そのとき。
「それはこちらのセリフよ」
耳をついたその声色は、艶やかで、冷ややかで。どこまでも恐ろしい音に、聞こえた。
セマルドも、彼女を目の前にしている男たちもそろって、動きが止まる。
ベルヴァはゆったりとした動作で髪を撫で払う。そして、高さのあるヒールが、カツン、と鳴って。男たちとの距離を詰めにかかった。
その仕草ひとつで、男たちが一瞬怯んだように、セマルドには見えた。
「誰の許可を得て、私に、その野暮ったい口を開いたのかしら」
片手を腰に添え、もう一歩、カツンとベルヴァの足元が鳴る。
ベルヴァの表情を間近で見ている男たちには、どんな景色が映っていることだろうか。彼らの目の色が、表情が、ひとりの女性に釘付けになる。
気づけば、周囲にいた悪魔たちも、彼女たちへと視線を集めていた。
「しかも肩にまで触れて。そんなに手首から先を、私に差し出したいの?」
「……いや、その……」
「口を閉じなさい」
ヒールの音が高くなった。
まるでそれを合図にするかのように、男たちは周囲からもわかるほどの動きで、ベルヴァから一歩引いてしまう。
紅が混じった金色の瞳が、威圧と色気を同時に孕む。
「まったく躾がなっていないわね……飼い主はどこ?」
その一言に、ひとりの男の顔がかっと赤く染まる。
「この、女……!」
伸びた手は、またベルヴァの肩を掴もうとしていた。しかし、その指先が届くよりも先に、ベルヴァの身体が半歩だけ横へずれた。
大きな動きではなかった。
避けた、というにはあまりにも静かで。
ただ、そこにいるべきではないものを、自分の前から外しただけのように見えた。
勢いを失った男が体勢を崩し、その手が、石畳につく。
それを見計らったかのように、ベルヴァは道に膝をついている男の前へと歩いていくと、躊躇いも見せず、片足を持ち上げた。
「……っ!」
気づけば、ベルヴァのヒールが、男の手の甲を押さえていた。
踏み潰すほどの力は入っていない。引き抜こうと大の男がもがけば、形勢逆転でもできそうなほどの緩い力で、彼女の足裏を支える切先は、そこを抑えていたに過ぎない。
「野犬並ね」
ベルヴァは、男を見下ろしていた。
紅を混ぜた金の瞳に、怒りはなかった。
あるのはただ、気に食わない絵が出来上がってしまったときの画家のような、冷ややかな不快感だけだった。
ヒールの先が、ほんのわずかに捻られる。
「……っ、い、てぇ……!」
「あら、痛いの?」
男の喉が、ひくりと鳴った。
ベルヴァは長い髪を揺らし、自分を見上げる男の顔を覗き込む。
男の視界いっぱいに、彼女という存在が雪崩れ込んだ。
「これぐらいで根をあげないでちょうだい? あなたの飼い主の代わりに、こんな痛みも気持ちよくなるぐらいに、躾直してあげるから」
その場にいた誰もが、息を忘れていた。
そして次の瞬間には、男はようやく手を引き抜いて、仲間たちと共に一目散で逃げていった。
男たちは一様に真っ青で真っ赤な顔をしており、今にも泣き出しそうであった。
その場に残されたベルヴァは一息つくと、周囲から集まっている視線のひとつにも目もくれず、髪をひとなでして、歩いていく。
ヒールの音も穏やかに立ち去ろうとする頃、その場を目撃していた悪魔たちも、ようやく日常の色が戻る。
——セマルドは、足を踏み出した姿勢のまま、動けずにいた。
「……やっばぁ」
零れた声は、自分でも呆れるほど素直だった。
それから翌日のことである。
セマルドはベルヴァのアトリエに入るなり、彼女の前へと進み出ると、目の前で頭を下げ、膝を折った。
ベルヴァがぽかん、としているところに、セマルドはいつになく真剣な表情で顔をあげる。
「これから、姐さんと呼ばせてください!!」
「……姐さん?」
「はい!!」
少しばかりの間を置いて、考える仕草をするベルヴァ。
やがて、その瞳はすっと細まり、セマルドを見下ろす。
「悪くないわ」
「よかったっす!」
「じゃあもう少しで完成しそうだから、お茶でも淹れてくれる?」
「はい!!」
それは、大型犬が飼い主を目の前にして尻尾をぶん回しているような、見事な懐きっぷりであった。
その後ベルヴァの絵は無事に完成し、依頼主からの謝礼も想定より多く支払われたという。
そして、貸し渡された技術を操れるようになった彼女の芸術性と強さに撃ち抜かれた舎弟がひとり、彼女の傍に立つことになったのである。
羊の角に糸を貸す
END
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