その女は、自分の顔に自信があった。
物心ついたときから、まるで人形のような子だと撫でられ、学生のときは愛の告白を多く受け、それは隣町からも届いた。
社会に出ては、たいしてお願いもしていないのに少し言葉をかけると周りがいうことを聞いてくれるものだから、なんて世の中は私のような人間が生きやすいようにできているのだろうと思った。
女は、宗教団体を作り上げ、実に多くの信徒たちを導いて、八十代になり、老衰でこの世を去った。
彼女の魂は、理界へと渡った。
女が立たされたのは、神殿のような真っ白な建物の中央。床は円形に切り取られて、少し窪んで段差があり、そこには薄く水が張られている。しかし、女の素足には水がゆらめく感覚は伝わってこなかった。
女の体は若い時分のもので、水面に浮かぶ己の顔に思わず懐かしさとともにうっとりする。
綺麗だわ……今見ても。
すると、声をかけられた。
「もう少しで主理神オルディア様がいらっしゃいます」
「オルディア様……」
「あなたがより高位へと渡れるかどうかを裁定される御方です」
女をここまで連れてきたのは、とある若い男だった。淡々とした口調で女へと説明を続ける。
「あなたの生前の行いと、魂の質については、すでに把握しておりますのでこちらで裁定をお待ちください」
「……えぇ、わかりました」
女は、にこりと実に綺麗に微笑んだ。
若い男はほんの少しだけ頬を赤くした。
どうやらこの世界でも、見た目の美しさは通用するらしい——女はそう思った。
間もなくしてその存在は、女の前へと現れた。
見たこともないほど大きな身体。なのに威圧はなく、ひどく穏やかな空気の流れの中で、裁定をする者だと言われていた彼は数人の天使たちとやってきて、真っ白な玉座のようなところへと腰を下ろした。
「オルディア様の御前です」
女は頭を垂れてから、ゆっくりと顔をあげて、主理神の方へと胸を張った。自信に満ち満ちたその仕草は、美しい彼女の顔立ちをより際立たせる。
白い翼を携えた天使たちが、主理神の足元で女を見やりながら、こそこそと何か言い合っている。
——信じられないくらい綺麗な人ね。
——噂通りだな。
そんな言葉が聞こえてくる。
天使と言えど、そんなことを言い合うものなのかと、女は少しだけおかしかった。
すると、天使たちへと先ほどの若い男が声を投げる。
「裁定が始まりますよ。私語はそのへんに」
「あ、失礼しました……っ」
天使たちが主理神の足元から散り散りになっていく。目の前の男に翼は生えておらず、見た目だけでいうと、人となんら変わりなかった。
女の目線が天使たちから外れ、何やら書類を見ている男に向かい、そしてずっと高い位置にある主理神オルディアの顔へとのぼっていく。どんな顔をしているのだろう、と女は目線をあげていって、その顔が見えたところでぴたりと止まった。
「……!」
女は、驚いた。
裁定者の瞼は、閉じていたからだった。
——この御方は、私の顔を見ないの? 女がそう思ったとき。
「裁定を始めます」
鐘が鳴った。
荘厳で、体の芯を揺らすような、深い音だった。
「あなたは」
鐘と似たような音色で、声が降ってくる。主理神は、ゆったりとした口調で話しかけてきた。
「生前、多くのものをご自身の言葉と意思で、導きましたね」
女は人知れず、安堵の息を小さく漏らした。
「えぇ」
「あなたを慕い集まってきた皆が、幸せになれるようにと」
「もちろんです。それが私の一生をかけた、使命と思っていました」
女は力強く頷く。
それを聞き届けたと言わんばかりに主理神も深く頷いた。
——顔が見られなくても、私の声は届くのだわ。
目を閉じたままの大いなる存在の前で、女は無意識に笑みをこぼした。
「それではあなたの元を去った者たちについては、いかがですか」
女の胸が大きく高鳴った。高揚ではない。不安と寂しさと焦りが、一気に押し寄せ、女の記憶をこじ開ける。
主理神は相変わらずの、凪のような表情。目にしたものは裁定の価値に値しないと言わんばかりの彼の振る舞いに、女の鼓動は余計に強くなるばかりだった。
「——そ、それは……」
ようやく絞り出した女の声は震えていた。
初めは、何か気の利いた返事をしなければと思っていた。ここは裁定の場。主理神に認められなければ私は……どこに導かれるのだろうと。
しかし、言葉は何も思い浮かばなかった。教祖として生きていたときの糧など、なかったかのように。
「人を使って引き止め縋りつき、それでも思い通りにならないと知り、彼らをひどく罵りましたね」
「……!」
「彼らはあなたに恐怖を感じたものの、確固たる意志は揺るがず、あなたの元を去った。そして——」
女の息が上がっていく。
構わず、主理神の言葉は続いた。
「——新たな家族と共に幸せになりました」
目をゆっくりと見開いていき、青ざめていた女の顔は、少しずつ色を取り戻していった。あがった息の音がヒューヒューと響いていたが、やがてそれもなくなる。
呼吸が落ち着いた時、女に残ったのは、寂しげな表情だった。
「なぜ、そんなことを」
主理神は穏やかに問いかけた。
女は長く黙っていた。
その時間、天使も、そばにいた若い男も、女を見つめるだけで誰一人声をかけることない。
やがて女は、なんとか顔をあげた。
「……人に必要とされないということが、とても怖かったのです」
「なるほど。しかしそれは、あなたに対して嫌悪が生まれたわけではなく、彼らにとっての成長への一歩であった、という理解にはなりませんでしたか」
「そのときは……気が動転しました。あんなことは、初めて、だったので……」
女はもう主理神の方を向いてはいなかった。ひどく意気消沈した様子で、顔は白く、目元が急に落ち窪んだようだった。
「あなたは実に多くの人を導きました。それは善意であったはず。しかし同時に、あなたは、あなたを必要としなくなった人たちへの、拒絶と嫌悪を隠せませんでしたね」
女は黙って、その声を聞いていた。
「どんな思いを抱いてもいいのです」
俯いたまま女は小さく息を呑んだ。
「でもあなたは、言葉にしてしまいました。その言葉で、彼らを導いたことは事実であったのに」
女はゆっくりと顔をあげてから、小さく頷いた。
いまだに目を開こうとしない主理神を一度見てから、視線を逸らす。
「……すべて、事実です。今でも昨日のことのように、そのときのことを思い出しますもの」
「そうですか」
主理神は、女の行いを責めはせず、まるで確認をとるかのように頷いた。
「では、誰の目にも映っていないとき、あなたはご自身をどのような者だと思っていましたか」
女はすぐには答えなかった。
戸惑いに、瞳が揺れる。
「誰の目にも……?」
おうむ返しをした女の声は、小さかった。頬が引き攣るような感覚に、ぎゅっと口元を結ぶと、主理神の声が返ってくる。
「誰からも必要とされず、誰からも美しいと言われない場所で、あなたはご自身を、どのような者だと思っていましたか」
やはり女は、問いの意味がすぐにはわからなかった。
——女は記憶をたどった。
幼い頃から、いつも誰かがそばにいた。美しいと頬を撫でる者。愛を囁く者。女の言葉を聞き漏らすまいと、熱心に耳を傾ける者。
生涯、独身であった彼女はひとりで過ごす夜も、もちろんあった。
けれど、そのときでさえ——鏡を見ていたことを、女は思い出していた。
明日はどの髪飾りをつけようか。どのように微笑めば、皆を安心させられるだろうか。どんな言葉を選べば、この人についていきたいと思わせられるのだろうか。
鏡の中にいる自分すら、誰かに見せるための自分だった。
「……わかりません」
女の唇から、弱々しい声がこぼれた。
「考えたことが、ありませんでした」
「ええ」
主理神は、ただ静かにそれを受け止めていた。
「あなたは、生涯を通して多くの者から愛されました」
「はい」
「そしてあなたもまた、多くの者を愛し、救おうとしたのでしょう」
思いがけない言葉に、女は伏せていた顔をあげた。
「私は……間違っていたのでは、ないのですか」
「間違いもあったでしょう」
主理神は、穏やかに答えた。
「しかし、あなたの善き行いが失われることはありません。あなたの言葉に救われ、生きる力を得た者がいたこともまた、偽りにはなりません」
女はこのごく短い時間の中で、落ち窪むように生気を失いかけていた瞳に、再び、力を僅かに取り戻した。見開いた瞳は、ぴくりとも動かない目元に注がれている。
「ですが、あなたはまだ、ご自身の魂の価値を知りません。他者の眼差しに映る姿を、己のすべてだと思っている」
女は足元へ目を落とした。
水面には、若く美しい顔が映っている。
生涯、何よりも誇らしく思っていた顔。
多くの者を惹きつけ、愛を与えられ、望んだものをもたらしてくれた顔。
「あなたは、善きことをしました。ですが同時にそれは、あなた自身の価値から、あなたを遠ざける結果となってしまいました」
静かに降ってくる裁定の声。
再び、鐘が鳴った。足元の水面が、微かに揺れて女の姿が歪む。芯に響く荘厳な音だったはずなのに、今の女には、ひどく寂しい音に聞こえた。
「申し渡します」
この場での、彼とのやりとりはこれで終わるのだと、女は自然と理解して、慌てて顔を向けて背筋を伸ばした。
「此度、あなたへ神格を授けることはできません」
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
女は思わず何かを言いかけた。しかし言葉は、出てこなかった。思いつくのに、それを喉が通り音になることを、拒むように。
女は、つい先程までは、自分はより高位の存在へと選ばれるものだと信じて疑わなかった。誰よりも愛され、多くの者を導いた自分こそ、高き場所へ迎え入れられるのだと思っていた。
それでも、抗う言葉は出てこなかった。
——なんで今更、こんなにも自分のことがよく理解できるのかしら。女は心の中で、己を嘲笑いたい気持ちに駆られた。
「あなたは、再び人として生きなさい」
「……はい」
「次の生で、あなたが何を得るかは定められていません。何を失うかも。しかし、誰の目にも映らない場所で選んだものこそ、あなたの魂に残るでしょう」
女には、その言葉のすべてを理解することはできなかった。
ただ、もう一度生きなければならないのだと思った。修行の、やり直しなのだと。
誰かに愛されるかもわからない。美しい姿で生まれるとも限らない。自分の言葉に耳を傾ける者など、ひとりもいないかもしれない。
それを恐ろしいと思う心は、まだ消えていなかった。
呆然としている女の側に近寄る気配があり、女はそちらへと振り返った。
先ほど女をここまで連れてきた若い男だった。彼はそっと手を差し出す。
「参りましょう」
女はその手を取る前に、もう一度、水面を見た。
「私は、この顔に価値があるのだと思っておりました。皆、この顔に惹かれてるのだと」
誰へ告げるともなく、女は呟いた。
「けれど、それが間違いだったのですね」
女は水面から目を逸らした。そして男の手を取り、足を踏み出す。
天使たちが静かに道を開けた。
誰も女を責めず、誰も女を慰めなかった。ここにやってきたときよりも、もっと静かなかえり道。
そのとき。
「待ちなさい」
女は足を止めた。若い男も、立ち止まる。
振り返ると、そこには主理神が変わらぬ存在感で鎮座している姿があった。
まだ何か申し渡されるのだろうかと、女は彼の言葉を待った。
すると、主理神の瞼が、ゆっくりと持ち上がっていく。
彼の瞳は不思議な色合いをしていた。金のように輝き、闇のように深く、しかしその瞳の形は、やわらかく優しげだ。
初めて向けられた眼差しに、女は思わず息を止める。
「確かに」
主理神はゆっくりと頷いた。
「あなたは本当に美しい。見るものを、癒したことでしょう」
美しい。それは生涯、数えきれないほど与えられてきた言葉だった。
けれど女は、初めてその言葉から逃れるように顔を伏せた。
頬が熱い。まるで少女のように顔を赤くする女の様子に、天使たちも驚いていた。
その賛辞を受け取れば、女はいつも微笑み、当たり前のように礼を言ったものだった。そしてどのようにすればより美しく見えるのか、どんな言葉を返せば喜ばれるのか……知っていたはずなのに、今は、何ひとつ思い浮かばなかった。
しばらくして、女は小さく首を振った。
「……ありがとうございます。嬉しい」
女は、実にしばらくぶりに、自分の中にわきあがった感情を言葉にしたような気がした。
主理神は、穏やかに微笑み、最後にこう告げた。
「いってらっしゃい」
女は若い男に伴われ、白い神殿を去っていった。
その姿が見えなくなるまで見送ったあと、主理神は再び、静かに目を閉じる。
——しばらくすると、中年ほどの見た目をした白髪まじりの女性が、パタパタと足音をさせて主理神のもとへとやってきた。
「オルディア様。次の魂は、生前、漫画を生業としていた者とのことです。こちらに目を通されてください」
「……漫画、ですか」
女性が手渡した紙の束が、主理神の掌の上で膨張し、彼が手に持てるほどの大きさへと変化する。
しばらく視線を書類に落としていた主理神は、ふと、驚いたように吐息して。
「——ホラー漫画家ですか。興味深いですね。彼の作品はありますか?」
女性はため息をついて首を振った。
「ありますが、今は駄目です。裁定に集中されてください。先ほどの女性の時も、彼女が生前に発行した写真集を見たいとか申されてましたよね」
「裁定に必要な情報かもしれませんから」
「駄目です」
今日の裁定が終わったらお渡ししますから、と、きっぱり言われてしまった主理神オルディア。
そのやりとりを遠くで見守る天使たち。
「オルディア様って、人界のこと、妙に知りたがるよな……」
「研究熱心なんだと思うんだけど……本読み始めると長いからって、理使理使(りし)
元人間が、神格を与えられた存在の総称。
魂の修行が終わり輪廻から外れて、理界で暮らしている。
基本的には理界の主理神オルディアに仕える役職につき、理界に渡ってきた魂たちの裁定の補助をしている。
裁定に関わることも。さんたち困ってるんだって」
理使たちの厳格な姿勢に内心気圧されながらも、オルディアは相変わらずの凪いだ顔つきで、次の魂の裁定に移っていくのであった。
約束ですよ、というオルディアの小さな声を、理使は聞いていた。
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