第一話 冥界史

 ――我々がいるこの世の名を、『冥界』という。
 冥界は生きており、常に循環を繰り返している、というのは現・冥界女王メレヴィア・オラム・シエオルの御言葉であるが、だとすれば、この冥界という生き物の体内は途方もなく広い。
 端から端までを目で見たという記録は、冥界史が編纂されてから今日に至るまで発見されていない。
 今もってして、そういった壮大で終わりの見込めない計画に取り組めるものはいないだろう。
 女王らが住まう中央区、死神族領、そして悪魔族領。大雑把に分けて三つの区画からなる土地も広くはあるが、それでも、冥界という生き物の身体の細胞のひとつに過ぎないのでは、と言われている。
 それほど、我々がいるこの世は巨大であり、かつ、そのほとんどを混沌と荒廃が支配している。そこには女王の統治の灯りも届かない。
 死神も悪魔も、迷い込んだ憐れな人の魂たちも、そこを古来より跋扈する飢えた魔物たちの餌になるのが冥界の本来の姿でもあるのだ。
 しかし、女王らは死神族の圧倒的な「死」による力と彼らの理性的かつ堅牢な精神に、忠誠を頂き、混沌たる冥界の一角に秩序を敷いたのである。
 女王と、そして死神族により、冥界の住民たちが平穏に暮らせる場所が生まれたのは、もう遠い昔のことであり、それは長らく続いている。
 その均衡が崩れたのは、五百年ほど前のことになる。
 女王メレヴィア率いる魔神の一族が、かつて混沌としていた冥界に突如として現れたときのように。
 悪魔族の“秩序”が姿を見せたのだ。
 それまで名のある血筋を持つ悪魔族以外は、群れ、もしくは個体としてしか活動が確認されていなかった悪魔族。特定の町も、ギルドも、法整備もなかった彼らの中央に、彼女は立ち上がった。
 散り散りだった悪魔族は、高いカリスマ性と比類なき強さを持った彼女を中心に瞬く間に集結し、町を作り、秩序を保つための組織とルールを作り、女王の統治を支えるための独自の機関をも作り上げた。
 先代族長からの交代後、実に僅かな間にこれらを成し遂げた悪魔族の若き族長の名は——ルヴィア。
 死神族の族長も、前族長の息子に代替わりをして、ようやく落ち着いた頃の悪魔族の台頭。
 長きにわたり、女王らと共に冥界の秩序を保ってきた死神族にとって悪魔族の躍進は、これまでの安寧の崩壊の一手に見えたことだろう。実際、死神族の重鎮たちからは一定の反発はあったとのことだ。
 だが、死神族族長のノエル・モルヴァンディーは、悪魔族による領地の拡大、そして、女王の命による冥界治安維持の分掌制度を快諾した。
 律・制御・静寂を重んじる死神族。
 欲・混濁・喧騒を良しとする悪魔族。
 未だに相容れぬ者同士との見方が強いが、双方の歩み寄りが更に入り交じったとき、また新たな歴史が、我らが冥界に刻み込まれるのだと思うと、私は高揚を抑えきれないでいる。

綜文院読み方:そうもんいん。
冥界に設置されている、綜合界文化記録院の略称。
 冥界史研究部門 部門長
ヴァルディオ・ネレウス著




 その文章をかたい視線でなぞっていく青年の瞳は、くすんだ金と焦げ茶が混ざり合っていた。磨かれた宝石というより、長い年月を地中で過ごした鉱石を思わせる特徴的な色を讃える。
 見た目は、成人をして幾年か過ぎたあたりではあったが、その静かな中に威圧が滲み出るような顔つきは、貫禄すら持ち合わせている印象だった。
 緑灰色の髪の毛は、短く無造作な揃え方にも見えるが、無頓着さは感じさせず、本のページを捲るたびに共に僅かに揺れる毛先は、光の加減で青銅色のような艶を見せることもあった。
「ねぇ、どう? ボクがおすすめした本。おもしろいでしょ?」
 ぷつっと途切れる目線は、声の主へ。
 硬質な瞳は、やわらかな、それでいて濃厚な表情をした桃色へと吸い込まれて、ふっと緩む。
「あぁ。研究書にしては読みやすい」
「でしょー?」
 本を読んでいた友人に声をかけた人物は、幾分若く、両方の性の質を兼ね備えた印象を持っていた。クリーム色のふわふわとした短髪に、つぶらな瞳は縁のない丸眼鏡の向こうで、にっこりと笑む。
 机に飲み物を入れたカップを二つ置くと、丸眼鏡を取り外した。
「その人の文章、好きなんだよねぇ。なんていうかぁ……歴史オタクの熱をたまに隠せてない感じ?」
 友人の言い草に、青年は小さく吹き出す。
「熱は確かに……感じる部分があるな」
 先ほどなぞったばかりの文を再びたどってみる。それから、持ち上げていた本を静かに寝かせると、カップへと手を伸ばした。
 向かい側の席に座る友人は、カップを口に運んでいるところだった。
 ふと、青年が身を乗り出す。
トワユトワユ・ラエティア
  
悪魔族。中立図書館勤務の司書。カロメティオとは旧知の仲。詳細はキャラ紹介ページへ。
。仕事中なのに、俺に付き合ってて大丈夫か?」
 すると友人は目を丸くしてから、ふっと笑んで。
「だいじょぶだいじょぶ。知識を求める研究者をもてなすのも、中立図書館司書の、立派な仕事だよ? あのヴィマンシャ家のご子息なんです、カロメティオカロメティオ・ヴィマンシャ
    
悪魔族。異界研究者。ヴィマンシャ家は異界研究のパイオニアで有名な家。
詳細はキャラ紹介ページへ。
君は〜……って司書長に言ったら、今度紹介してって言われた。紹介していい?」
「……勘弁してくれ」
 友人の言葉は、半分本気、半分冗談のようにも聞こえたがカロメティオは、ため息混じりに小さく返した。トワユはからかうように笑っている。
 中立図書館に着いてからトワユに通されたこの談話室は、ちょうど他に人もおらず、のんびりとした時間が流れていた。
「それにしてもカロ君が珍しいよねぇ。冥界史を知りたい、なんてさ」
「そうか? まぁ、たまには……異界以外の知識を入れるのも、悪くないかなと」
 軽く頬杖をついては首を傾げるトワユ。菓子にのるクリームのような色をした淡い黄色の髪が、ふわりと揺れた。
「異界研究に飽きた、とか?」
 すると間髪入れずにカロメティオは首を振る。
「それはない」
 青年の反応に、トワユが思わず笑う。
「そりゃそっか。ヴィマンシャ家の悪魔が、異界研究に飽きることなんかないよねぇ」
「冥界史の壮大さにはかなわんが、異界研究もネタが尽きることはないからな」
 ネタが尽きることはない。
 そう聞いては、トワユの好奇心はむくむくとわいてくる。
 濃い桃色の瞳を瞬かせて、トワユは身を乗り出した。
「じゃあ次は、ボクの知識欲を満たしてよ」
 唐突にも思えたトワユの発言に、今度はカロメティオの目が、瞬く。
「俺がか?」
 カロメティオは、この友人の知識に関する貪欲さはよく知っていた。書物を読み漁り、経験をし、それらを己の生きる循環に含めてしまうこの友人の特異な性質を。
 それを今、トワユは、異界研究者であるカロメティオに向けていた。
「カロ君にしか語れないこと、あるでしょ? 一度聞いてみたかったんだよねぇ」
「……そうだな」
 カロメティオの口が楽しそうに歪んだ。


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